ヒルソングと讃美

ヒルソングの『福音』

原文: Hillsong & Worship by Cameron Buettel & Jeremiah Johnson


This is no performance
Lord, I pray it’s worship
Empty words I can’t afford
I’m not chasing feelings
That’s not why I’m singing
You’re the reason for my song

これは演技ではありません。
主よ、この讃美を祈りとして捧げます。
虚しい言葉には我慢できません。
感情を追い求めません。
それは私が歌う理由ではないのです。
あなたこそ、私が歌う理由なのです。

And I only wanna sing
If I sing with everything
If I sing for you, my King

全てのものと共に、私の王よ、あなたに歌わなければ
私は歌いたいと思いません。

I can’t imagine why
I would do this all for hype
Cause it’s all to lift You high

なぜこれが嘘偽りだと言えるでしょう。これはすべてあなたを高く上げることだからです。

この「Only wanna sing」という曲のこの箇所で、声は高まり、ストロボは明滅し、ステージ上の人々と聴衆たちは皆、放縦に動き回ります。

ここに表れている皮肉は見逃し難いものです。

このヒルソング・ヤング・アンド・フリーの曲では、ヒルソングのワーシップ音楽に関する多くの問題が顕出しています、つまり、不明瞭な歌詞、教義面の混乱、本質ではなく表面的なものの強調です。

曖昧さを通じたアピール

ヒルソングの哲学は今日の時代精神によく適合します。倫理道徳は主観的なもので、性は流動的であり、真実とは幻想に過ぎないと社会学者は言います。古くからの賛美歌に見られるような正確な神学は今日では明らかに用を為さなくなっています。

おそらくヒルソングほどに今日の諸教会を今までに経験したことのないほどの大量の音楽で満たすことに成功した団体はないでしょう。彼らの曲はキャッチーで、ミュージシャンたちの技能は優れており、作曲家たちは聴衆の良心が痛まないようにその曲を「クリスチャンらしく」聞こえるようにすることを心得ています。結果として、彼らの曲はクリスチャン世界を満たしており、そのアルバムセールスは、世俗的な基準で見ても膨大です。

あなたがファンダメンタリストの怒号を期待しないよう、明らかにしておきましょうーこれは教会に浸透してしまった現代的な音楽に対するくどくどした説教ではありません

しかし、古めかしく排他的な信仰が、流動的で不明瞭なメッセージを届けようとする現代的な曲によって取って代わられようとしているなら慎重にならざるを得ません。多くの場合、ヒルソングの歌詞は曖昧で多くの宗教で受け入れることができます。

At break of day, in hope we rise
We speak Your Name, we lift our eyes
Tune our hearts into Your beat
Where we walk, there You’ll be

夜明けに我らは希望によって立ち上がる
あなたの御名を唱え、目を上げる
心をあなたの鼓動に合わせ
歩む場所に、あなたがいる

With fire in our eyes, our lives a-light
Your love untamed, it’s blazing out
The streets will glow forever bright
Your glory’s breaking through the night

目に宿った炎とともに、我らは光を生きる
あなたの愛は思いのままに、照りつける
通りはいつまでも明るく輝き
あなたの栄光は夜を打ち破る

You will never fade away, Your love is here to stay
By my side, in my life, shining through me everyday

あなたはいつまでも消えず、あなたの愛はここにある
私のそばに、私の人生の中にあって日々を輝かせる

You wake within me, wake within me
You’re in my heart forever

あなたは私の中で目覚める、私の中で目覚める
あなたは永遠に私の心の中にいる

この歌詞は「Wake」という曲のものですが、この曲には何らキリスト教特有の要素はありません。実際に、儚くとりとめのない中学生のラブレターと言ってもわからないほどです。

ヒルソングの牧師たちは彼らの曲は神学的正確さについてレビューされていると言います。しかし、「Wake」や「Only Wanna Sing」のような曲について一体何をレビューするのでしょう?

教理的空白と歪曲

ヒルソングのすべての曲が曖昧と言うわけではありませんーそのいくつかはより神学的であろうとしています。「What a Beautiful Name」のような曲には聖書的テーマを見ることができます。

最初の節ではキリストの永遠性と神聖を語りますー「あなたは最初ことばであった。全てに高くあられる神とともにあった(You were the Word at the beginning / One with God the Lord Most High)」(ヨハネ1:1を参照)。その後、曲の合間で彼の復活に言及しますー『死はあなたを縛らない/覆いはあなたの前から取り去られた…あなたが再び蘇ったから』そして、曲中を通してキリストは王であると言われます。

しかしながら、2節ではヒルソングを特徴付ける教義上の深刻な問題が表れていますー歪曲、人間中心、そして必要情報の欠如です。

You didn’t want heaven without us
So Jesus You brought heaven down
My sin was great, Your love was greater
What could separate us now . . .

あなたは私たちのいない天を望まなかった
だからイエス、あなたは天を地上にもたらした
私の罪は大きいが、あなたの愛はより大きい
今、何が私たちを隔てるのだろう…

「What a Beautiful Name」の作詞者は私たちにキリストの生涯、死、そして復活は彼が『私たちのいない天を望まなかった』ためであったと思わせたいようです。これはうまい感傷的な文句ですが、全く聖書的ではありません。実際、これは教理に不案内な人々による歪曲です。

神の贖いの理由が彼の孤独による不満足であるなどとは聖書のどこにも書かれていません。そうではなく、聖書全体にわたって響くのは罪人たちを贖うことによって神御自身が褒め称えられるという願いです。ローマ3:21ー26では特に神の正義なるご性質の現れとしてキリストの贖いが説明されます。十字架が神の罪人に対する大いなる愛を示している(ヨハネ3:16)ことは疑いようがありませんが、それは彼が私たちなしでは孤独であるということではありません。

さらに、ヒルソングの実践すべてから滲み出してくるのはその人間中心の世界観です。私たちはその資格無くして益を得たものではなく、神を褒め称えるストーリーの主人公となります。

ヒルソングの最良の曲にすら存在する大きな問題が「What a Beautiful Name」にも現れています。神学的には正しいように見える時ですら、存在すべき情報が失われていることによって良い歌詞もその意義を失うのです。『私の罪は大きいが、あなたの愛はより大きい』のような歌詞は回答を与えるよりも疑問を多く引き起こします。ヒルソングがそのワーシップソングで罪に言及することすら稀なのですが、罪に言及されたとしてもその意味は未定義のままです。

同様に、神の御怒り、悔い改め、裁き、堕落、そして個人的な聖潔はヒルソングの曲の中には存在しません。しかしそれらの聖書的実存はヒルソングでも語られる、恵み、憐れみ、赦し、救いといったものの必要不可欠な背景です。恵みが分不相応の好意であるなら、私たちがそれに値しない理由を知る必要があります。私たちが受けるべき御怒りの理解なくしては憐れみの意味は失われます。神に対する個人としての罪の意識無くして、赦しは全く理解不能なのです。そして私たちが一体何から救われたのか教えられなければ救いは空しいものとなります。

Strange Fire conference(奇妙な炎カンファレンス)にて、ジョン・マッカーサーは別の有名クリスチャンバンドと今日多くの教会を覆っているワーシップ音楽について次のように語りました:

讃美について簡単に説明させてください。神の真実についての理解が深くなり、神御自身についての理解が深くなるにつれ、より高いところへあなたの讃美は向かいます。讃美は理解と密接につながっています。神学が豊かになり、聖書的真理をより知るにつれ、あなたの讃美はより高められます。讃美をするために音楽を自分自身に向ける必要はないのです。神についての浅い理解ーうわべだけの浅い神理解ーは中身のないうわべだけのヒステリーに向かいます。そのように人々を煽り立て、狂乱騒ぎを作り出すことはできるでしょう。しかしこれは讃美とは何の関係もありません。それは讃美ではありません。讃美につながりすらしません。それは心に欠けた全くのヒステリーです。皆さんは今週聖歌を歌いました。なぜでしょう?なぜなら聖歌の中には豊かな神学があるからです。ヒステリーのようになる必要はありません。私たちはあなたの知性全体にも関わって欲しいのです。私は7語を11回以上にわたって繰り返すコーラスを必要としません。私には教理面を深めることが必要です。豊かさを深めたいのです。真理をより深め追求したいのです。そして聖歌には数節の歌詞があり、5語が何度も何度も何度も何度も繰り返され神学的なものが何も無いようなものではありません。そうですね、これは讃美でもなければキリスト教徒でもありません。ロックコンサートと何の違いもありません。人々の心を操作するための方法はいくつもあり、彼らはそれを心得ているのです。

教理は重要です。幸運であっても、ヒルソングの曲を日常的に摂取することで不完全な救いの神学の中に取り残されます。最悪の場合、これは神と人類、そして私たちがいかに神と和解できるかについての非聖書的誤謬を広めることとなります。

実質よりもスタイルを重視すること

上で引用した歌詞は都合よく抜き取られたものではありません。ヒルソングのように膨大な曲目を持っていれば、その中から批判のために幾つかの曲を選び出すことは簡単です。

そうではなく、上記で言及した曲はヒルソングの礼拝で私たちが直接聞いたものです。数ヶ月間、私たちはヒルソング・ロサンゼルスに通っていました。これはこのミニストリーの最も新しい開拓教会の一つです。アメリカ人の聴衆たちは彼らのワーシップ・バンド、CD、コンサートに世界中の殆どの地域よりも親しんでおり、彼らは最も急速に成長している教会ネットワークの一つです。世界中にフランチャイズを広げる中で、彼らは最近アメリカにも進出してきました。(訳注:Grace to Youは米国の団体)

私共の判断では、ヒルソングは、ジョン・マッカーサーがそのミニストリーにわたって警告を発してきたようなシーカー・センシティブ(求道者重視)の次の波だということです。彼らは、ロバート・シュラー、ビル・ハイベルズ、そしてリック・ウォレン等と同じ穴のムジナで、若く流行に敏感な聴衆を狙っているに過ぎません。

ヒルソングLAの礼拝は実質的にロックコンサートと区別できません。一歩足を踏み入れた瞬間から、目と耳の中にきらびやかなマルチメディアのプロダクションが飛び込んできて、漠然とした芸術的な深遠さを醸し出します。

祈り、讃美、説教といった一般的な教会の礼拝の要素がありはするのですが、それらは通常、感覚−魂ではなく−に訴えるよう仕組まれています。礼拝を締めくくる偽りの回心の招きの間、人々が一体何にコミットしようと思っているのか知ればきっと驚くでしょう。

終わりに、ヒルソングの軽率さや曖昧さはその歌詞を飛び越えて、そのグローバルなミニストリーのすべての面に現れています。数日にわたって、彼らが主張する実践的な神学を見てゆき、それを彼ら自身の教理宣言と、究極的には聖書自身と比較します。

わたしたちが直接目にしたように、ヒルソングが振るう凄まじい影響力が混乱の種を播き、次世代の教会に腐敗を招くことを知ることができるでしょう。


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この記事のオリジナルは Grace to You掲載されました。
This article originally appeared here at Grace to You.

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