私のジーザスライフハウスでの経験(当サイト管理人の証言)

「東京にとても成長している教会がある」

私がジーザスライフハウス(現ライフハウス)について初めて耳にしたのは2008年ごろに彼らがまだ溜池山王で礼拝を行っていた時でした。当時、洗礼を受けたキリスト教徒であった私は、多くのクリスチャン同様に日本での宣教の停滞を憂いており「成長している教会」などと聞くと純粋に憧れを感じずにはいられませんでした(今思うと私自身の信仰にも問題があったのです)。そして、すぐに彼らの礼拝に参加するようになりました。

信仰について熱く語る同年代のクリスチャンたち、洗練された賛美、いきいきと語られるメッセージ。そのどれもが今までの教会にはないもので、私はこれが新しい世代のキリスト教会であると納得しました。ライフグループに参加し、休日にはメンバーらと行動を共にしました。ライフグループで語られる信仰の勇気に満ちた証に、メンバーたちは同じキリスト教徒として輝いて見えました。

しかし、今思えばライフグループやチャーチでの教えはキリスト教の実質に欠けていました。私達の話題は、どうやって教会に人を導くか、どうやってクリスチャンとして成長するか、どうやってビジネスで成功するかなど実際的なことばかりでした。キリストの十字架がどのように私達の救いに関係があるのかなどという神学的な問いは、クリスチャンであれば誰もが会得している初歩的な内容として軽んじられていたように思います(実際にはリーダーや牧師でさえキリストの救いを理解しているのか疑問です)。

溜池山王の時代はまだ数十人程度のグループが家族的に礼拝を守っていて、それほど居心地は悪くありませんでした。徐々に数的に成長していく教会にワクワクしていましたし、自分たちが神の教会を建て上げているんだという喜びもありました。ロド・プラマーを頂点としたヒエラルキーもそれほどひどいものではなかったように思います。しかし、どこかで教会の人々に違和感を感じていたことも事実です。

一つには上位のリーダーであればあるほど愛情深いように感じられませんでした。特に牧師は英語しか話さないということもありましたが、一般信徒とコミュニケーションを取ることはほとんどなく、無視されているように感じることも多くありました(今もその冷淡な態度がフラッシュバックして辛いです)。彼らはまた、なにか野心的で、教会内で目立ってのし上がることを第一に考えているようなところが感じられました。ライフグループのリーダーに相談しても、牧師は忙しいからだとか、あなたがその考えを変えるようにといわれ、その答えに自分を無理やり納得させて自分のせいだと考えていました。また、今もおそらく同じですが、教会が延べの礼拝出席人数を実際の会員数であるかのように大言壮語していたことにも違和感を感じていました。

それでもジーザスライフハウスが(数的に)成長していることは確かなことでした。このように成長して世の中に影響を与えている教会が間違った教会であるはずがないと自分に言い聞かせて教会に参加し続けました。「健康なものは成長する!」との彼らの教えを真に受けていたのです。彼らがヒルソングという「正式な」ネットワークに属していると盛んに宣伝していたことも、彼らが正しいと考える根拠でした。そして教会はどんどん成長し、原宿から六本木に広い会場を求めて移動しました。しかし、私の状態は想像以上に悪くなっていました。

あるとき、クリスチャンの友人と会うことがありました。そして会話の中でジーザスライフハウスについて相談すると、その友人は私にキリストの救いについて説明を求めました。しかし、私は曖昧な答えしか返すことができませんでした。私は救いの意味を完全に見失っていました。その友人は私に強く警告してくれましたが、私はそれでもジーザスライフハウスが正しい教会であれば神に背くことになる、神が私に用意している素晴らしい計画を台無しにすることになると考えて通い続けました(今思うとこの考えも彼らのカルト的な教えに影響を受けています)。

今考えてみると、私はかなり無理をしていたように思います。彼らが正しいと自分に言い聞かせ、自分を責め続けていました。彼らが信仰深さの報酬のように言うビジネスの成功や最高の相手との結婚、教会での活躍を脅迫的に追い求めていました。しかし私の魂はぼろぼろでした。あるとき苦しみの中で祈っていると、突然「恵みのある方へ行きなさい」との言葉が心に浮かびました(私はこれが神の導きであったと信じています)。その時、ジーザスライフハウスの礼拝で神の恵みを体験したことがまるで無かったことに気づきました。礼拝で語られるメッセージも実際的な自己啓発のようなものばかりで、キリストの救いや恵みについての話が全くと言っていいほどなかったのです。それでもまだジーザスライフハウスがまともなキリスト教会であると思っていましたが、自分にこの教会は向いていないと考えて、ようやく教会を離れる決心がつきました。

インターネットで疑問に思えば、疑問に賛成を読んだのもこの頃です。私は聖書に同意していましたが、この記事の内容を自分の経験と重ね合わせ、何度も読みました。そして、「幸福の科学みたいな気の狂った集団がこの国の人々を誘導するために用いる戦略」という文章から、教会の数的成長が必ずしも健康な教会の証では無いことに気づきました。このときようやくジーザスライフハウスがカルトなのではないかと疑い始めました。それまで愚かにもそんな疑いをもつことがありませんでした。その後、教会の教理やカルト化した教会について調べ始め、ジーザスライフハウスの姿がカルト化した教会の特徴にぴったりと当てはまること、またその教えも人間中心で福音の理解がまるで欠けていること、彼らの都合に合わせた無茶苦茶な聖書解釈に気づきました。

そして、英語版の記事につけられた深刻なコメントの数々を読んで、私が経験したものとは比較にならない状況にジーザスライフハウスがカルトであるとの確信を持ちました。ひとたびそのことがわかると、自分のチャーチでの経験を理解することができるようになりました。しかし、その理解に変わって自分に傷を負わせたライフハウスの人々に対する怒りに苦しめられるようになりました。彼ら独特の空回りしたポジティブな調子で書くFacebookの投稿を見ると動悸が鳴り止みませんでした(今でもその傾向があります)。上位リーダーや牧師たちの冷たい態度への憎しみが拭えず、強い復讐心が湧いたことを告白します。しかし、聖書では一貫して偽教師に対する厳しい裁きが述べられています。偽教師であるライフハウスの牧師たちが義なる神の厳しい裁きを回避できる理由は無いことに気づくと、裁きを神に任せようという思いになれました。何より、彼らのために祈ることが私の回復の始まりでした。

公平を期すために言えば、この記事にコメントを挙げている人たちに比べて私はリーダーや友人に恵まれていました。彼らほどの独裁的なリーダーシップを取られたことはありませんし、友人たちはとてもいい人たちでした。教会には他にも素晴らしい人々がたくさんいます(それがライフハウスの命令の結果であったとしてもです)。にもかかわらず、これらのコメントが真実を語っていることは確かに分かります。コメント主の何人かは実際に知っている人だと思いますが、彼らがこんな嘘をつくような人だとも思えません(教会で彼らを突然見なくなったのを不思議に思っていました)。そして、私の元リーダーや友人たちの多くはすでに教会を去っていて、聞く話では状況は悪くなる一方のようです。

ライフハウスがますます多くの人々を間違った教えによって苦しめようといることは事実です。また、私も数年に渡って彼らの働きに加担してしまいました。その罪滅ぼしというわけではないのですが、これ以上この教会のせいで苦しむ人が出てほしくないという思いで私の経験をシェアしたいと思います。


追記
当サイトの編集のためにマインドコントロールについて調べていて、自分もまさにマインドコントロールの被害を受けていたようであることが分かりました。しかし、一旦このことが分かると大分気分も楽になります。

マインドコントロールの場合は、自分の心が他者にコントロールされていたことを受け入れること自体が非常に困難です。 – 「マインドコントロール」と「洗脳」の定義

特にマインド・コントロールによって苦しんだ方は、すでに心に傷を負っていますから、赦せなくなって、怒りが沸々と湧いてきやすいのです。 – マインド・コントロールの手法

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中